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2019年9月16日月曜日

苦戦!男友達へのヤンゴン案内。



ヤンゴンでいちばんお気に入りの場所へ、友達と幼稚園帰りの娘を連れて。



先週、中国に駐在している友達が、中秋節の休みを利用してミャンマーにやって来ました。
30代男性でひとり旅。事前に頻繁にメッセージをやりとりし、3泊4日の日程はヤンゴン→バガン→ヤンゴンで動くことに。バガンは彼が一人でバイクを借りて周り、ヤンゴン滞在中は私が終始アテンドする流れに決めた。

ここからが問題。本人は「とくにリクエストなし、おまかせ!」とのこと。さて、ヤンゴンの滞在1日半で、どこへ行こう?悩みました。これまでも、私を頼って何人かミャンマーに来てくれましたが、振り返ってみると、ヤンゴンで本格的にアテンドして回ったことってなかった。さらに言えばみんな女性だったので、私と趣味嗜好が似ており、買い物もいっぱいしたいー!って感じだったので、連れて行く場所には苦労しなかったのです。

友達はかなり旅慣れており、アジアでいえばほぼ行き尽くしたのでは?と思えるほど。買い物やチャイナタウンには興味がなく、私の得意分野がほぼ役に立ちそうもない。過去に旅したバガンやピィ、シャン州は、たくさん予習&復習したので大体わかるのに。自分が住んでいる街のほうが、むしろ知ろうとする機会が少ないのかも…。


一緒に巡ったヤンゴンスポット。


旅の2日間はとても天気に恵まれ、外を歩きやすかったのが救いでした。友達とホテルで待ち合わせしたのが、朝10時。たっぷり時間はあると思っていたものの、なんだかんだで、1日目は午前中にシュエダゴンパゴダ、ランチ後にボージョー市場だけ!

その後私の娘を幼稚園に迎えに一緒に行き、自宅でちょっと休憩。友達はボージョー市場で買ったロンジーとTシャツに着替え、夕食のレストランに向かう途中でチャウタッジーパゴダに立ち寄りました。

チャウタッジーパゴダは、でっかい寝仏様のいるパゴダ(トップの写真)。建物に入るとすぐ目の前に、どどーんと大迫力の仏様が現れます。「これがいちばん見たかったんだよー!これ、シュエダゴンパゴダにいると思ってた!来れて良かったー」と、友達も喜んでくれてよかった。

2日目のヤンゴン観光は、朝から午後2時半まで。朝10時半にホテルで待ち合わせして、まずは軽く食事することに。スーレーパゴダ周辺にいたので、シャンカオスエの人気店「999」にしました。今回の旅行でなんとか一度も両替せずに過ごした友達。細い路地にある大衆食堂のような小さなこの店が、VISAカード対応していたことに感激していた。

「999」のシャンカオスエ(汁あり)

「999」を出ると、Sule Pagoda Streetのヤンゴン証券取引所を起点に、建物やお店を見て回る。この日の前日、この通りにあるOld Tourist Burma Buildingという建物がリノベーションを経てオープンしたばかりで、クラフトフェアを開催していました。ここで買い物したのは案の定私のほうで、ラングーンティーハウスの簡易カフェ(?)で見つけた、ミャンマー文字入りの琺瑯カップに散財する。

スーレーパゴダの東側、ヤンゴン市庁舎周辺

ただいま雨期で毎日ざあざあ雨が降るヤンゴンですが、この日は綺麗な青空が。植民地時代の建物が美しく映え、私もついつい写真を撮りたくなりました。スーレーパゴダヤンゴン市庁舎、元は高級百貨店「Rowe & Company」が入っていたAYA銀行ヤンゴン旧最高裁判所などなど… 英国植民地だった頃の重厚な建物が数多く残るこの通りでは、当時の華やかなラングーンの雰囲気を満喫できます。


丸いえんとつ屋根と赤い壁で、なんだか可愛い将軍の家。

最後の観光は、当日朝に友達からリクエストされたボージョーアウンサン博物館へ。私も今回が初めての訪問です。将軍と家族が生活していた当時の様子が再現され、実際に使っていた日用品が展示されていました。将軍が使っていた淡い色合いのロンジー(単なる経年劣化?)や食器類が意外と可愛いものだったり、子供達の勉強ノートにはたくさん落書きがあって、どこの国のいつの時代も一緒だなあと可笑しかったり。展示の解説は少ないですが、将軍家族を身近に感じるおうちでした。



シュエダゴンパゴダ

シュエダゴンパゴダにて。


言わずもがな、ヤンゴン最大の見所。ここで私は痛恨のミスをしました。靴を入れるビニール袋を忘れた! チケット売り場で袋がないか聞いてみると、「ここに置いといていいですよ」と売り場で靴を預かってくれた。ミャンマーの人って本当に優しい。ありがたやー。

雨が降った後だったので、地面がつるっつる。ちょっとでも気をぬくと滑りそうで怖かったです。「外で裸足になるなんて、すごいひさしぶり…」と感慨深げな友達。

ここで私たちが気になったこと。
・参観(お参り)する順番ってあるの?
・2つの大きな「王の鐘」。あれは何?
・誕生曜日の水曜は、なぜ午前と午後に分かれているのか?
・ライオンと人間の体を持つあの守護神(?)が気になる
・ある仏像の脇に置かれたテレビモニターに、また別の仏像の映像が流れている。なぜ?
・シュエダゴンパゴダの中心には何が納められてる?
・シュエダゴンパゴダのてっぺんには何がある?

ガイドブックを読めば書いてあるのかな。次回アテンドまでに調べておこう。



ボージョー市場にある「はりこ」で、ロンジー試着中。

彼の買い物。


中サイズのリュックひとつで来た友達。そんな彼が自発的に買ったものは以下。
ラペットウ …以前ミャンマー出張した友達が買って来て食べたことあるそうで。同居人のお土産にしてた。
コーヒー豆 …ジーニアスコーヒーの深煎りピンウーリン産と浅煎りユワンガン産。ぜひ飲んだ感想を聞かねば。
インスタント麺 …「HANA」を2種類。彼が唯一事前に下調べしてきたモノ。
ピーナツ菓子 …私がおすすめしたもの。うちの家族にも毎回好評なので。
ロンジー …淡い色合いのものをさがしたけれど見つからず。結局好きな黄緑色をチョイス。
Tシャツ …ロンジーに合わせる用に。私なら絶対選ばない柄を気に入っていたので、えーと思っていたら、後日私の夫が全く同じ柄を購入していた笑。



ダウンタウンの街中にも、バナナの木。


旅の感想。


「ミャンマー旅行、予想していたより3倍楽しかった」そうです。
もしかしたら、私がヤンゴンいるうちに「もう一回来るかもよ?」とも。ひとりで旅したバガンも、想像を遥かに上回る遺跡群のスケールに圧倒されたようでした。今もなお人々の信仰の対象として現役のパゴダでは、ボロブドゥールやアンコールワット以上に彼の心を動かしたよう。「どこに行っても仏像の首が残っているなんて」という発言は、各国を訪ね歩いている彼らしくて面白かったです。

2019年8月10日土曜日

ヤンゴン中華街を歩こう[4]3大廟巡り〜龍山堂 編

天気の良い時には、憩いの場にもなっていました



裕福な一族が先祖を祀った龍山堂


龍山堂は、前記事で書いた「慶福宮」同様、福建省出身の華人によって1877年に建てられました。

ただ、こちらは特定の一族(曾家邱家)によって作られた場所。彼らのルーツである、中国晋朝の王の子孫や祖先を祀っています。訪れる人もまばらで、大抵いつ訪ねてもひっそりとしていますが、見学は自由です。

他2つの廟とは違って比較的小さいですが、それでも一族だけでお堂を建ててしまうなんてすごい。とても裕福な家系だったんでしょうね。

私たちが先日訪ねたときは、先客は地元のおじさんが一人だけ。
ヤンゴンの歴史に興味があって龍山堂に立ち寄ったことを伝えると、なにやら非常に納得してくれて、お堂内を案内してくれました。しかし、オールミャンマー語だったので、ほぼ理解できず… ああ残念!

龍山堂の紹介サイト(英語)によれば、中央から向かって右に福徳聖神、中央に如来菩薩観音、左に祖先が祀られているそうですが、やはり私にはどれがどれかわからずじまいでした。


龍山堂のお堂内

神様はガラスケースに納められており、かつ柵越しで、お顔もよく見えません


曾家と邱家は非常に教育熱心な一族だったそう(客家かな?)。
それがいちばんよくわかるのは、一族の人間がどこどこの大学で学士や修士を取ったと記したプレートです。本堂の隣に併設されたスペースに、ズラリと掲げられていました。上海の复旦大学やイギリスのケンブリッジなど、名門ぞろいです。

一族の子供達に十分な教育を受けさせるべく、龍山堂では教育資金の支援(奨学金制度)を行なっていたとのこと。おそらくその支援を受けて、世界へ羽ばたいた子供たちのものなのでしょう。

誇らしげに掲げられたプレート。

中庭には九龍壁が。慶福宮と同じく、庭を広く設けた作り。

龍山堂は、Anawratha Rd.に面した非常にわかりやすい立地にあるんですが、龍山堂の外壁一面に店が軒を連ねているため、入り口を見つけにくいです。(私は何度も車で通り過ごし、結局この一帯を歩いて探してやっと見つけました…)
行く時は、見逃さないようにご注意を!

入り口が埋もれてしまっている…


3大廟を巡り終えて


中華系の廟って、とても寛容で開かれた印象があります。私が、仏教の影響を多大に受けている日本で生まれ育っているからでしょうか。ここが、特定の神様(信仰)だけを祀るのではなく、多種多様な神様が同居する場所だから、というのも大きいかもしれません。

その寛容さのおかげで、私たちは気軽に見学ができ、見学することで、ヤンゴン中華街の歴史に触れることもできました。私はこれまで華僑っていってもあまりピンと来なかったのですが、今回彼らの軌跡を知ったことで、少し興味がでてきました。(知る機会って大事ですね)

余談ですが、今年11月、絶好のタイミングで広東省(広州)に行けることに。
夫の用事について行くだけなので、実質現地で動けるのはまる2日。しかも幼児連れだから、メインは子供の楽しめるスポット観光になりそうですが、広州の風土と広東語に触れることができるのが嬉しい。楽しみです!

(それはまた番外編で、旅レポートを作ろうと思います)



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↓3大廟の地図はこちら




ヤンゴン中華街を歩こう[3]3大廟巡り〜 観音古廟 編



シンプルなレンガ造りの外観とは対照的な、絢爛豪華な内部装飾が印象的。

ヤンゴン中華街最古の廟


1885年、ラングーンが英国領ビルマの首都となった時、現在の中華街エリアには、すでに中国廟が存在していました。それが1824年、広東省の出身者たちによって創設された、観音古廟です。

1824年頃のミャンマー史を見ると、まだマンダレーにはビルマ族のコンバウン王朝があって、マハバンドゥーラ(軍指揮官)がインド進出を目指したがためにイギリスに攻撃されたりしてる時代。その頃からヤンゴンは、渡来人であふれていたのでしょうか。

観音古廟があるのは、中華街のど真ん中。
植民地時代には「広東大街」と呼ばれていたマハバンドゥーラ通りに面し、廟のすぐ脇(20番通り)では早朝から深夜まで食堂や屋台、露天市場が営業する、とても賑やかな場所です。"串焼きストリート”として人気の19番通りからもすぐなので、旅行中でも立ち寄りやすいかもしれません。


マハバンドゥーラ通りに面した、廟の入り口。


観音古廟となりの通りに立ち並ぶ屋台。

以前、「広東大街」一帯は広東人ばかりが住んでいたそう。特に大工や細工職人としてやって来た人が多かったため、観音古廟を創立する際は、彼らの技術を結集し精巧な装飾が施されました。しかし、その後火災や老朽化などで何度も再建され、最近では2002年に大改修が行われたとのこと。



観音古廟内に飾られた、緻密な彫刻。


観音古廟では、観音菩薩航海神の天上聖母(媽祖)、商業神の山西夫子(関羽、商業・職業の神北帝爺などたくさんの神様が祀られています。

今回知ったのは、観音菩薩は人々を苦しみから救うだけでなく、水陸両方の商人を守る神としても信仰されている、ということ。また北帝爺とは玄武大帝(上帝公)を指し、北方位を統括する水の神なのだそうです。大海原を命がけでやって来た人々が、"水”にまつわる神々を非常に大事にしていることが、よく分かりました。

…ただ、実際に祭卓を一つ一つ見て回っても、どれがどの神様かさっぱり検討がつきません。これがわかれば、廟の見学がもっと楽しくなりそうです。



観音古廟の祭卓に鎮座する神様。これも結局なんの神かわからずじまい…

左の、赤い肌に黒ひげは関羽っぽいですよね。



そういえば、廟では運試しのおみくじが引けます(慶福宮、龍山堂にもあった)。私も今回、はじめてトライしました。

竹串のような棒がたくさん入った大きな筒を両手で持ち、上下にジャカジャカ降ったあと、筒を下に傾けます。そうすると何本か飛び出てくるので、その中で一番長く前に突き出た棒を、抜き取ればOK。

その棒を、出入り口付近のカウンターに持って行くと、棒に書かれた番号の紙をもらえました。私のは、これ。

全くわからん…

うーん、ネガティブな漢字があるのであまり良い結果ではなさそう。そばにいたおじさんに見せたら、紙を燃やしてくれました。(悪いのは燃やすみたいです)
おみくじは無料ですが、代わりに線香を買うとか、楽しませてもらったお礼としてほんの気持ちを賽銭箱(寄付ボックス?)に入れるとよいかもしれません。


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ヤンゴン中華街を歩こう[4]3大廟巡り〜 龍山堂 編


↓3大廟の地図はこちら


2019年6月8日土曜日

ヤンゴン中華街を歩こう[2]3大廟巡り〜慶福宮 編


 福建省からの華僑が築いた「慶福宮」。広東系の廟より福建系のほうが、控えめな色合い。

ヤンゴンのチャイナタウンで人気の観光スポットのひとつが、「」です。
(東南アジアのチャイナタウンなら大抵そうなのもしれませんが)ここの廟は主に、広東省出身者が建てた廟と、福建省出身者が建てた廟の2種類にわけられます。

ヤンゴンにある3大廟の内訳。建立年は右から観音古廟(1823)、慶福宮(1861)、龍山堂(1875)


廟では、仏教や道教等の神様どれかではなく、祖先や民間信仰の神様を一緒に祀っていて、自分たちが信じている神様まとめてぜんぶ、という印象です。
中国では明朝末期、3教混合(儒教、道教、仏教)の信仰が民間に信仰していったそう。華僑もその流れをくんでか、ヤンゴンにある廟でも3教混合の神が祀られています。


慶福宮の内部。写真中央奥に祀られるのが媽祖



3大廟(1)Kheng Hock Keong 慶福宮


3大廟の中でも特に有名なのが「Kheng Hock Keong(慶福宮)」。南北に伸びるシンオーダン通りが、ヤンゴン川に沿って伸びるストランド通り(ミャンマー語ではカンナーラン)に突き当たる位置にあります。

資料によれば、植民地時代にはここに華人専用の埠頭があり、中国からの帆船が出入りしていたとのこと。商業・交易を生業としていた福建人は、埠頭のそばに廟を建て、媽祖(航海の神)を中心とした神々を祀りました。

慶福宮には媽祖以外にも、保全大帝(健康・長寿の神)や山西夫子(商業・職業の神)、土地神八神など様々な神がおられます。
華僑の廟に祀られている神様は本当に多種多様!しかも同じ神様でも複数の呼び方(名前)があるんです。調べればいろんな神話や逸話が出て来て面白いんですが、キリがない…

私がここで気になったのは、中央に祀られた媽祖の祭卓下にひっそりとあった神様です。そばにいた地元の方が指差しで教えてくれ、「ホウヤーゴン」というのだそう。虎の置物と石彫りの虎(だと思う)像が、しゃがんで覗き込まないと見えない位置に祀られていました。

これ。

虎は、ここに限らず各廟で目にします。気になって調べてみたら、中国文化研究者の川野先生とい方が、廟の虎について詳しく書いたブログを発見!

台湾と福建系華人の虎爺(虎爺の話その2)
─虎爺を巡る民間信仰 (台南城隍廟とシンガポール大伯公廟
ブログ「アジアの街並−東南アジア旧市街・中国古鎮・日本昔町ー川野明正の研究室」より

川野先生によると、台湾や福建系華人の民間信仰では、“虎は神様に帰依して神使いとなることも”あり、台湾では虎は、土地神・山神の乗騎なのだそうです。また、ときには財神であり、子供の守り神でもあると。

虎ひとつとっても、実に様々な神となるのですね。とても興味深いです。きっとこの慶福宮にいた「ホウヤーゴン」も、このどれかの神様なんだと思います。(でもホウヤーゴンてどういう意味なんだろう…)。

*追記 2019/7/11
川野先生によると、虎爺公(虎の神、中国語読み:フーイエゴン)のことを、福建南部方言ではホーヤーゴンと言うのだそうです。スッキリしました!

「龍山堂」の入り口で見かけた虎の彫刻

「観音古廟」の神様とともに祀られた虎。

ちなみに上の観音古廟の写真、4年前くらいに撮影したのですが、先日再訪してみたら、



塗り直されていました!




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ヤンゴン中華街を歩こう[1]チャイナタウンってどんなとこ?





2019年6月3日月曜日

ヤンゴン中華街を歩こう[1]チャイナタウンってどんなとこ?


福建省からの華僑が建てた「慶福宮」(Strand Rd.)。


ダウンタウンとチャイナタウンのあゆみ


「ヤンゴンの中華街を、じっくり散策してみたいね」
街歩き仲間とずいぶん前から話していたこの企画が、今週ついに実現することに!
そこで街歩きの予習も兼ねて、ヤンゴンの中華街についてこれまで見聞きしたことを、まとめて書いてみようと思います。
(このページは、ヤンゴンのフリーペーパー「MyanMyan」(2015年掲載)で書かせてもらった中華街記事の内容を抜粋し、修正加筆しています)

ダウンタウン中央に鎮座する、スーレーパゴダ。その奥にはヤンゴン川とダラ郡区も見える。(※この写真は北側から撮影しているので、右手がインド人街&中華街。)

ヤンゴンのダウンタウンの西側に、チャイナタウン(中国語では唐人街、ミャンマー語ではタヨウッダン)はあります。チャイナタウンの東にはインド人街があり、スーレーパゴダ、さらに東に進めば植民地時代の“コロニアル建築群”と、ダウンタウンは見所満載のとても興味深いエリアです。


そもそもダウンタウンは、1852年、イギリスが英緬戦争で勝利したことで、本格的に開発が進められました。現在の碁盤目状の街は、このとき形成されたもの。

イギリスは下ビルマを「英国領ビルマ」としてインドの自治州にし、ヤンゴンを「ラングーン」に改め、商業と政治の中心地に整備しました(ラングーンが英国領ビルマの首都となったのは1885年)。

当時、川沿いのダウンタウンは、港で働くための労働力としてすでにやって来ていたインド人が住むエリアで、住民の半数以上がインド大陸東海岸から来た人々だったそうです。そのエリアの中に、華人の居住区が定められました。



ビルマは中国の雲南省と国境を接しているので、昔から中国人の陸路往来が活発でしたが、ラングーンに住んだのは主に、海を渡って来た福建省と広東省の出身者たちでした。

商人として富を得ていた福建省出身者は、ヤンゴン川沿い(現在のストランド通り)にあった交易港の向かいに航海の神を祀り(慶福宮)、その周囲一帯を拠点としたそうです。

一方、職人業で身を立てていた広東省出身者の生活は、マハバンドゥラ通りが中心でした。ラングーン開発で建設業の需要が高まったのに伴い、たくさんの広東人が、大工としてやってきたそうです。

現在は“串焼きストリート”として知られる19番通りも、昔は広東人しかいなかったとか。マハバンドゥラ通りは、当時住人から「広東大街(大通り)」と呼ばれ、多くの商店や飲食店が立ち並ぶメインストリートでした。

ヤンゴンのチャイナタウンといえば有名なのが、19番通りの”串焼きストリート”。夜は観光客や地元民で賑わう

ちなみに、シンガポール発の有名な軟膏「タイガーバーム」の発明者、胡子欽氏の家族は、1870年代に福建省からラングーンに渡ってきたそうです(胡子欽氏はラングーンで生まれ、家族とともに広東大街で「永安堂」という薬局を経営していました)

その後、中国で起こった大躍進政策(19581961)や、文化大革命(19661976)などの影響により、中国本土各地から200万を越える中国人が国境を越えてヤンゴンへ移住したそうです。チャイナタウンでは、広東省や福建省と同じくらいの頻度で祖先が雲南省出身だというミャンマー人によく出会います。

チャイナタウンのマハバンドゥラ通り界隈。漢字表記はそれなりにあるけれど、イメージで思い描くチャイナタウンの街並みっぽさは少ない。


ヤンゴン中華街の特徴

中華街といえば漢字があふれ、中華料理店や雑貨店で賑わうイメージ。でも、ここにはそんな派手さはありません。街が「中華風」から脱却せざるをえなかった時代があり、今もそのまま時を重ねています。

1962年、ビルマはネ・ウィンの軍事政権に突入。
ビルマに根付いて財産を蓄積した外来者(南アジア人、華人)を対象に、企業や土地を国有化する政策を打ち出します。これにより、母国に戻る人、海外他国へ転出する人、ビルマに残る人(外に出たくても出られなかった人々含む)に分かれました(ミャンマーの地方には、今でも村単位で残るコミュニティもあるそうです)。

企業や学校などが国有化され、華人の経済・教育方面にも大きな影響を与えました。学校が国有化されたことにより、ビルマ全土に約300あった華人の学校もなくなります。

中国で文化大革命(19661976)が起こった際には、ビルマの華人社会にも波及。一部で毛主席語録を学習する人々も現れます。こういった流れから、ビルマでも排華事件(1967)が発生。毛沢東バッヂをつけた華人だけでなく、皮膚が白くてズボンを履いているだけで、攻撃の対象になったケースもあるそうです。

これをきっかけに、華人社会ではビルマ国籍の取得とビルマへの同化が加速しました。

それでも、困難な時代を一族や同郷者で助け合い、たくましく生き抜いてきた人々。今尚チャイナタウンには、たくさんの「○○(会)館」(相互扶助組織)の看板が掲げられています。

ここは華人たちの“落地生根”(土地に定着して根をおろす)の歳月が感じ取れる、貴重な場所だと感じるのです。





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2016年6月12日日曜日

[ヤンゴン観光]足踏みミシンに興奮!布小物の制作2時間レッスン。

Mさんの「あずま袋」が予想以上に可愛かった!
ワンポイントにいろいろ付けてみたくなりました。

布好きさん集まれ!


「ヤンゴンで、布小物の
制作体験レッスンを開いている
場所があるよ」

私の布好きを知る友人が、
そう教えてくれました。

主催者は、ボージョー市場で
おみやげクッキーを売る店
「シンピューレ」さん。
チャイナタウンにある工房で
希望者がいれば
随時受け付けているそう。

…なんだか面白そうだ!

ということで、
最近知り合ったばかりの
同じく布好きの友達Mさんに声をかけ、
参加してみました。


工房は、日本料理「MARU」の
徒歩圏内にあるアパート屋上階。
3面に窓があり、開放的な工房。広々としていて居心地がよかった〜

ちなみに布小物というのは、
お店でも販売しているこんなポーチ。
自分で好みのミャンマー布を組合せ、
パッチワークのように
縫い合わせるのです。

材料はすべて工房に用意されてます。ポーチの場合、料金10,000チャットで材料費込み。
使用する布。ミャンマーらしいロンジー用の布の他、色も柄もたくさん!

作りたいものを作る。


私はポーチはたくさん持っていて、
Mさんも「実は作ってみたい物がある」
と別々の希望があったため、
事前に担当者の方に相談しました。

結果、私はカットソー、
Mさんはあずま袋という手提げを
作ってみることに。

見本となる現物や画像を用意し、
裁縫の先生に確認してもらったところ、
「レッスン時間内で作れそうです」
との了解を頂けました。
なんて融通がきくんだ! 
ミャンマーのいいところ。

しかも、日本人担当者の方が
通訳してくれるので
言葉の心配もありません。

1回のレッスンは約2時間。
(洋服のばあい、時間がかかるものは
2回コースになることもあるそう)
工房設定のレッスンと異なる場合、
布は必要分を自分で持参します。


希望のデザインを再度説明し、
午前10時、いざ制作開始!

Mさん持参の布を確認する、工房の先生たち。


Mさんのあずま袋は、
製作図を持参していたのですが
そもそもミャンマーには
「あずま袋」がないため、
まずは皆で紙を使って
サンプルを作るところから始めました。
(私もあずま袋、知りませんでした…)

やってみたら、実にシンプル。
長方形の布を2カ所で折り曲げ、
脇を縫えば袋の形になります。

使用するのは足踏みミシン。
ミャンマーは停電が多いので、
足踏みが便利なのです。

さすが先生。
実に軽やかに、ササーッと
縫い上げていきます。
美しい縫い目に惚れ惚れ…

ブラザー製の足踏みミシン。レトロなデザインとキッチュな橙色が時代を感じさせます。

あずま袋、製作開始20分ほどで
完成してしまった。

袋の底の端を、折り曲げるかどうか相談中。
持つとこんな感じ。よい! 

Mさんが使用した布は
生成りの無地。

そのままでも充分素敵なのですが
この白いキャンバスに、
何か個性を出してみたくなりました。

刺繍しようか刺し子を入れようか
ミャンマー布をつけてみるか
いろいろアイデアを出し合い、
悩みに悩むMさん。

結局、
「今日はこのまま持って帰ります」
と、時間をかけて
どうするか考えることにしました。
じっくり考えるのもまた楽しいです。


興味深い、製作過程


いっぽう、私のカットソーですが
やはり難易度が高く、
なかなか自分で、
というのは難しかったです。

ミャンマーで買ったノースリーブを見本に作りました。
でも、洋服って
こんなふうに作られるのかあ、
とか
この道具ってココで使うんだ!
といういろんな発見があり
いずれ自分で服を作りたいと
夢見る私には、大きな収穫が
たくさんありました。

この定規! 存在は知っていたけど、使っているのを見たのは初めて。
ノースリーブではなく、半袖を希望しました。服のかたちになってきた!
襟元は接着芯で強化。なるほどー

足踏みミシンに挑戦!


普段は、ミニ電動ミシンを使っている私。
(最近は引っ張り出すのが面倒で、
もっぱら手縫いですが…)

せっかくここに来たんだから、
と、足踏みミシンに挑戦しました。

ただ直線に縫う。

それだけなのに…
電動とは全然勝手が違う!
左手で布を押しあげ、
右手で車を回しつつ、
ペダルを足で踏みながら、縫う。
これが想像以上に難しい。

うまく踏めないと針が動きません。
右手まで追いつかず、
車は先生が横で回してくれました。

それでも…うまく踏めないんです。
やっとこさ脇1本かけました。

ズレないようマチ針をたくさん入れ、そのままミシンをかける先生。すごっ
そんなこんなで、
ようやくカットソーも完成。

完成品の撮影忘れましたが、
希望どおりのかたちが出来ました。


ただ、終えてみての感想は、
「自分で作る」を体験するなら、
洋服はやめておいたほうが
いい、ということ。
(私は欲張りすぎました)

それでも、
シンプルなこういう服なら
2時間くらいで出来てしまうので
服の製作過程を見たいという人には
おすすめ。

Mさんの作った「あずま袋」、
とってもいいです。
あっという間にできるので、
その後の時間は
完成した袋に刺繍したりして、
オリジナル手提げが作れます。

雨季はなかなか外で遊べないので
こういう体験教室はありがたい。
お子さんがいらっしゃるなら、
親子で手芸体験もいいかもー。


===============
布小物体験レッスン
運営:お土産店「シンピューレ」
連絡:shinyume@myanmarcookies.jp
   09421160462
※「ミャンミャン」5月号にも体験記事出てます
今回は実験的に2つ異なるアイテムを同時に作成する事がきましたが、今後も同様の対応が可能かは未定とのことです。でも、こういう物が作ってみたいな…があれば、とりあえず問い合わせてみて下さい。可能な限り対応してもらえるはずです。