福建省からの華僑が建てた「慶福宮」(Strand Rd.)。 |
ダウンタウンとチャイナタウンのあゆみ
「ヤンゴンの中華街を、じっくり散策してみたいね」
街歩き仲間とずいぶん前から話していたこの企画が、今週ついに実現することに!
そこで街歩きの予習も兼ねて、ヤンゴンの中華街についてこれまで見聞きしたことを、まとめて書いてみようと思います。
そこで街歩きの予習も兼ねて、ヤンゴンの中華街についてこれまで見聞きしたことを、まとめて書いてみようと思います。
(このページは、ヤンゴンのフリーペーパー「MyanMyan」(2015年掲載)で書かせてもらった中華街記事の内容を抜粋し、修正加筆しています)
ダウンタウン中央に鎮座する、スーレーパゴダ。その奥にはヤンゴン川とダラ郡区も見える。(※この写真は北側から撮影しているので、右手がインド人街&中華街。) |
ヤンゴンのダウンタウンの西側に、チャイナタウン(中国語では唐人街、ミャンマー語ではタヨウッダン)はあります。チャイナタウンの東にはインド人街があり、スーレーパゴダ、さらに東に進めば植民地時代の“コロニアル建築群”と、ダウンタウンは見所満載のとても興味深いエリアです。
そもそもダウンタウンは、1852年、イギリスが英緬戦争で勝利したことで、本格的に開発が進められました。現在の碁盤目状の街は、このとき形成されたもの。
イギリスは下ビルマを「英国領ビルマ」としてインドの自治州にし、ヤンゴンを「ラングーン」に改め、商業と政治の中心地に整備しました(ラングーンが英国領ビルマの首都となったのは1885年)。
当時、川沿いのダウンタウンは、港で働くための労働力としてすでにやって来ていたインド人が住むエリアで、住民の半数以上がインド大陸東海岸から来た人々だったそうです。そのエリアの中に、華人の居住区が定められました。
ビルマは中国の雲南省と国境を接しているので、昔から中国人の陸路往来が活発でしたが、ラングーンに住んだのは主に、海を渡って来た福建省と広東省の出身者たちでした。
商人として富を得ていた福建省出身者は、ヤンゴン川沿い(現在のストランド通り)にあった交易港の向かいに航海の神を祀り(慶福宮)、その周囲一帯を拠点としたそうです。
一方、職人業で身を立てていた広東省出身者の生活は、マハバンドゥラ通りが中心でした。ラングーン開発で建設業の需要が高まったのに伴い、たくさんの広東人が、大工としてやってきたそうです。
現在は“串焼きストリート”として知られる19番通りも、昔は広東人しかいなかったとか。マハバンドゥラ通りは、当時住人から「広東大街(大通り)」と呼ばれ、多くの商店や飲食店が立ち並ぶメインストリートでした。
ヤンゴンのチャイナタウンといえば有名なのが、19番通りの”串焼きストリート”。夜は観光客や地元民で賑わう |
ちなみに、シンガポール発の有名な軟膏「タイガーバーム」の発明者、胡子欽氏の家族は、1870年代に福建省からラングーンに渡ってきたそうです(胡子欽氏はラングーンで生まれ、家族とともに広東大街で「永安堂」という薬局を経営していました)
その後、中国で起こった大躍進政策(1958〜1961)や、文化大革命(1966〜1976)などの影響により、中国本土各地から200万を越える中国人が国境を越えてヤンゴンへ移住したそうです。チャイナタウンでは、広東省や福建省と同じくらいの頻度で祖先が雲南省出身だというミャンマー人によく出会います。
チャイナタウンのマハバンドゥラ通り界隈。漢字表記はそれなりにあるけれど、イメージで思い描くチャイナタウンの街並みっぽさは少ない。 |
ヤンゴン中華街の特徴
中華街といえば漢字があふれ、中華料理店や雑貨店で賑わうイメージ。でも、ここにはそんな派手さはありません。街が「中華風」から脱却せざるをえなかった時代があり、今もそのまま時を重ねています。
1962年、ビルマはネ・ウィンの軍事政権に突入。
ビルマに根付いて財産を蓄積した外来者(南アジア人、華人)を対象に、企業や土地を国有化する政策を打ち出します。これにより、母国に戻る人、海外他国へ転出する人、ビルマに残る人(外に出たくても出られなかった人々含む)に分かれました(ミャンマーの地方には、今でも村単位で残るコミュニティもあるそうです)。
企業や学校などが国有化され、華人の経済・教育方面にも大きな影響を与えました。学校が国有化されたことにより、ビルマ全土に約300あった華人の学校もなくなります。
中国で文化大革命(1966〜1976)が起こった際には、ビルマの華人社会にも波及。一部で毛主席語録を学習する人々も現れます。こういった流れから、ビルマでも排華事件(1967)が発生。毛沢東バッヂをつけた華人だけでなく、皮膚が白くてズボンを履いているだけで、攻撃の対象になったケースもあるそうです。
これをきっかけに、華人社会ではビルマ国籍の取得とビルマへの同化が加速しました。
それでも、困難な時代を一族や同郷者で助け合い、たくましく生き抜いてきた人々。今尚チャイナタウンには、たくさんの「○○(会)館」(相互扶助組織)の看板が掲げられています。
ここは華人たちの“落地生根”(土地に定着して根をおろす)の歳月が感じ取れる、貴重な場所だと感じるのです。
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