2019年8月10日土曜日

ヤンゴン中華街を歩こう[4]3大廟巡り〜龍山堂 編

天気の良い時には、憩いの場にもなっていました



裕福な一族が先祖を祀った龍山堂


龍山堂は、前記事で書いた「慶福宮」同様、福建省出身の華人によって1877年に建てられました。

ただ、こちらは特定の一族(曾家邱家)によって作られた場所。彼らのルーツである、中国晋朝の王の子孫や祖先を祀っています。訪れる人もまばらで、大抵いつ訪ねてもひっそりとしていますが、見学は自由です。

他2つの廟とは違って比較的小さいですが、それでも一族だけでお堂を建ててしまうなんてすごい。とても裕福な家系だったんでしょうね。

私たちが先日訪ねたときは、先客は地元のおじさんが一人だけ。
ヤンゴンの歴史に興味があって龍山堂に立ち寄ったことを伝えると、なにやら非常に納得してくれて、お堂内を案内してくれました。しかし、オールミャンマー語だったので、ほぼ理解できず… ああ残念!

龍山堂の紹介サイト(英語)によれば、中央から向かって右に福徳聖神、中央に如来菩薩観音、左に祖先が祀られているそうですが、やはり私にはどれがどれかわからずじまいでした。


龍山堂のお堂内

神様はガラスケースに納められており、かつ柵越しで、お顔もよく見えません


曾家と邱家は非常に教育熱心な一族だったそう(客家かな?)。
それがいちばんよくわかるのは、一族の人間がどこどこの大学で学士や修士を取ったと記したプレートです。本堂の隣に併設されたスペースに、ズラリと掲げられていました。上海の复旦大学やイギリスのケンブリッジなど、名門ぞろいです。

一族の子供達に十分な教育を受けさせるべく、龍山堂では教育資金の支援(奨学金制度)を行なっていたとのこと。おそらくその支援を受けて、世界へ羽ばたいた子供たちのものなのでしょう。

誇らしげに掲げられたプレート。

中庭には九龍壁が。慶福宮と同じく、庭を広く設けた作り。

龍山堂は、Anawratha Rd.に面した非常にわかりやすい立地にあるんですが、龍山堂の外壁一面に店が軒を連ねているため、入り口を見つけにくいです。(私は何度も車で通り過ごし、結局この一帯を歩いて探してやっと見つけました…)
行く時は、見逃さないようにご注意を!

入り口が埋もれてしまっている…


3大廟を巡り終えて


中華系の廟って、とても寛容で開かれた印象があります。私が、仏教の影響を多大に受けている日本で生まれ育っているからでしょうか。ここが、特定の神様(信仰)だけを祀るのではなく、多種多様な神様が同居する場所だから、というのも大きいかもしれません。

その寛容さのおかげで、私たちは気軽に見学ができ、見学することで、ヤンゴン中華街の歴史に触れることもできました。私はこれまで華僑っていってもあまりピンと来なかったのですが、今回彼らの軌跡を知ったことで、少し興味がでてきました。(知る機会って大事ですね)

余談ですが、今年11月、絶好のタイミングで広東省(広州)に行けることに。
夫の用事について行くだけなので、実質現地で動けるのはまる2日。しかも幼児連れだから、メインは子供の楽しめるスポット観光になりそうですが、広州の風土と広東語に触れることができるのが嬉しい。楽しみです!

(それはまた番外編で、旅レポートを作ろうと思います)



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↓3大廟の地図はこちら




ヤンゴン中華街を歩こう[3]3大廟巡り〜 観音古廟 編



シンプルなレンガ造りの外観とは対照的な、絢爛豪華な内部装飾が印象的。

ヤンゴン中華街最古の廟


1885年、ラングーンが英国領ビルマの首都となった時、現在の中華街エリアには、すでに中国廟が存在していました。それが1824年、広東省の出身者たちによって創設された、観音古廟です。

1824年頃のミャンマー史を見ると、まだマンダレーにはビルマ族のコンバウン王朝があって、マハバンドゥーラ(軍指揮官)がインド進出を目指したがためにイギリスに攻撃されたりしてる時代。その頃からヤンゴンは、渡来人であふれていたのでしょうか。

観音古廟があるのは、中華街のど真ん中。
植民地時代には「広東大街」と呼ばれていたマハバンドゥーラ通りに面し、廟のすぐ脇(20番通り)では早朝から深夜まで食堂や屋台、露天市場が営業する、とても賑やかな場所です。"串焼きストリート”として人気の19番通りからもすぐなので、旅行中でも立ち寄りやすいかもしれません。


マハバンドゥーラ通りに面した、廟の入り口。


観音古廟となりの通りに立ち並ぶ屋台。

以前、「広東大街」一帯は広東人ばかりが住んでいたそう。特に大工や細工職人としてやって来た人が多かったため、観音古廟を創立する際は、彼らの技術を結集し精巧な装飾が施されました。しかし、その後火災や老朽化などで何度も再建され、最近では2002年に大改修が行われたとのこと。



観音古廟内に飾られた、緻密な彫刻。


観音古廟では、観音菩薩航海神の天上聖母(媽祖)、商業神の山西夫子(関羽、商業・職業の神北帝爺などたくさんの神様が祀られています。

今回知ったのは、観音菩薩は人々を苦しみから救うだけでなく、水陸両方の商人を守る神としても信仰されている、ということ。また北帝爺とは玄武大帝(上帝公)を指し、北方位を統括する水の神なのだそうです。大海原を命がけでやって来た人々が、"水”にまつわる神々を非常に大事にしていることが、よく分かりました。

…ただ、実際に祭卓を一つ一つ見て回っても、どれがどの神様かさっぱり検討がつきません。これがわかれば、廟の見学がもっと楽しくなりそうです。



観音古廟の祭卓に鎮座する神様。これも結局なんの神かわからずじまい…

左の、赤い肌に黒ひげは関羽っぽいですよね。



そういえば、廟では運試しのおみくじが引けます(慶福宮、龍山堂にもあった)。私も今回、はじめてトライしました。

竹串のような棒がたくさん入った大きな筒を両手で持ち、上下にジャカジャカ降ったあと、筒を下に傾けます。そうすると何本か飛び出てくるので、その中で一番長く前に突き出た棒を、抜き取ればOK。

その棒を、出入り口付近のカウンターに持って行くと、棒に書かれた番号の紙をもらえました。私のは、これ。

全くわからん…

うーん、ネガティブな漢字があるのであまり良い結果ではなさそう。そばにいたおじさんに見せたら、紙を燃やしてくれました。(悪いのは燃やすみたいです)
おみくじは無料ですが、代わりに線香を買うとか、楽しませてもらったお礼としてほんの気持ちを賽銭箱(寄付ボックス?)に入れるとよいかもしれません。


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ヤンゴン中華街を歩こう[4]3大廟巡り〜 龍山堂 編


↓3大廟の地図はこちら


2019年7月15日月曜日

[ピィ:日帰り旅]世界遺産ピューの古代都市群を、牛車で巡る。

牛車で約2時間の、古代都市遺跡めぐり
雨の中、あえて牛に乗ってたのは私達だけでした笑


人気観光地・バガンが、
世界遺産登録された前日。
私はミャンマーのもう1つの世界遺産、
ピューの古代都市群の遺跡がある街
ピィへ行って来ました。

この国の最古の都市遺跡を、
ヤンゴンにいるうちに見てみたくて。
夫の同僚のNさんが、
今回企画・アレンジしてくれたおかげで
とうとう実現することができました!


ピィ(Pyay)とは:
ミャンマー中部バゴー地方域の都市。エーヤワディ川に面し、ヤンゴンから北西260kmの位置にある。1853年にはイギリス領となり、プロームと改名。上ビルマと下ビルマの水上運送の経由地として発展。 

ピュー(Pyu)とは:
現在のピィの周辺に、紀元前2世紀頃〜後9世紀にかけて栄えた王国。 
ピューは中央政権的な国家体勢を敷かず、複数の都市国家からなる“ゆるやかな連合”国家だったという。西はスリランカ、南東はマレー半島、インドネシア方面まで勢力を拡大し、国際交易が盛んだったため、インドからヒンドゥ教が伝わり、ヴィシュヌ信仰が広まっていた。その後、モン族を経由して仏教も伝わる。 

世界遺産ピューの古代都市群とは:
複数あったピュー古代都市群の遺跡は、約2000年前に東南アジアに仏教が伝来したことを示す最古の証拠でもあることから、2014年、世界遺産に登録された。 
仏教伝来により、この地域には経済的、社会的、政治的、文化的変容がもたらされ、9世紀までの最長の歴史を持つことになる最初で最大の都市社会をもたらした。いずれも煉瓦造りの城壁で囲まれた城塞都市。宮殿や埋葬地跡、仏塔などが残る。(一部、UNESCOのサイトより抜粋) 


ビルマ族のバガン王国よりも、
1000年以上前に存在していたピュー王国。

当時の都市遺跡のうち
世界遺産に登録されたのは
・ベイタノー(1〜5世紀)
・シュリクシェトラ(3〜10世紀)
・ハリンヂー(3〜9世紀)
の3市で、

今回私達が観光したのは、
一番南に位置するシュリクシェトラです。
(ミャンマー語ではタイエーキッタヤー)

ヤンゴンとピィの位置関係。(画像:Googlemapより)
ピィとピュー(シュリクシェトラ)遺跡群の位置関係。(画像:Googlemapより)


ピューの国が栄えていた時代は、
この辺りがエーヤワディ川の河口で、
海岸線があったそうです。
(信じられない!)



シュエサンドーパゴダから見渡せる、ピィの街。


旅の行程。


旅のメンバーは総勢8名。
車2台で、運転手さんが2名ずつ。

早朝4:00、自宅を出発。

:00、集合場所を出発。
ヤンゴンとピィを繋ぐ道、
Pyay Rd.をひたすら北上!
(途中から高速?)

縦横にガタガタ揺られ、
全く眠れませんでした。

運転手さん、めちゃ飛ばしてた。
ひたすら心の中で
「事故りませんように…」と祈る。

心配していた雨は小ぶりで、
降ったり止んだりの繰り返し。

田んぼや畑の変わらぬ景色。


「feel」の店内。広い!きれい!

9:00前、ピィまで残り3分の1程。
ヤンゴンにもあるミャンマー料理店
「feel」を発見し休憩、朝食。
トイレも清潔で広々。
温かいお茶を飲めただけでも
気分が安らぐ。ありがたかった!


10:30、ピィ市内に到着。

シュエサンドーパヤー(Shwesandaw Pagoda)

まずはシュエサンドーパヤーへ。

ブッダの聖髪などが安置されている
とても神聖な場所ですが、
よりも境内のユニークなオブジェに
終始釘付け!


境内から巨大な仏様を臨む。
下から見上げると全然違った印象に。


表情がコミカル。
女子のおしゃべりを見守るブッダ。「へー、んで?」って言ってそうなお顔。



獅子の口の中に虎の子…?


ブッダの生涯をオブジェで再現? 刀に血まみれの女性たち…何があったの…
中央の女性が持つ容器、よく見たら「試験がうまくいきますように」の文字が…
ブッダを問い詰めるシーンのオブジェでは
「恋愛運があがりますように」…!(お金投げ込まれてるし)

どれも緊迫したシーンなのに、
全然関係ないお願いごとが笑。

こういったものが、
ハテナ?だらけで面白いのは、
私たち外国人だけなんですよね、
確実に。



11:30
城郭都市だったシュリクシェトラの
壁・門の跡博物館へ。

どこへ行っても、人がまばら。
外国人の姿は見当たらず、
ミャンマー人観光客ばかりでした。

城壁と門跡。上のほうに見える白い石は、世界遺産マークの刻まれた碑。
こちらも門の跡。苔むした感じがカンボジアのタ・プロームみたい。

博物館。

シュリクシェトラ遺跡観光の中心には、
この博物館。
遺跡からの出土品や
ピューの文明や宗教などの解説、
仏像などを見学。

この周囲にどんな遺跡があるのかも
ここの地図で確認できます。

館内はこぢんまりしていて
じっくり読み込んでも
1時間ほどでまわれそうでした。


ピュー文字と現在のミャンマー文字が
なんとなく似ていたこと、

東南アジア内陸部各地で発見されている
ピューの人々が使用した
「ピューコイン」現物を見られたこと、

この国での上座部仏教の成り立ちを
仏像のお顔立ちから感じられたこと、

など、興味深かったです。


ガイドさんに、遺跡めぐりのルートを説明される一行。
12:30
館内を見終わると、ガイドさんが登場。
(事前にNさんがガイドと牛車を予約してくれていました)

シュリクシェトラの遺跡群をめぐるべく
3台の牛車に分かれて乗り込む。

ピィで牛車に乗ってみたい!
というのが、Nさんのささやかな夢。
雨もあがり、その願いは叶いました。

ジャーン!特別に屋根をつけてもらった牛車です。

私は夫の上司Fさん、ガイドさんと乗り合わせ。
舗装されていないでこぼこ道。
乗車してすぐにお尻が痛くなる。

「これがあと2時間続くのか…!」
と2人して不安になりましたが、

牛が私たちを乗せて
懸命に歩みを進める姿を眺めていると、
牛を食べる気にはなれない*という
ミャンマー人の気持ちも、
なんとなく共感できました。

(*大抵のミャンマー人は牛肉を食べる習慣がない。「自分たちのために働いてくれるから」とよく聞きます)

牧歌的で平和な風景を進む。

30分ほど揺られたのち、
点在する遺跡に到着。

ヤハンダ寺院Yahanda Gu Temple東西南北の4方に出入り口がある寺院が多い中、ここは3つしかないのが特徴。

ヤハンダ池Yahanda Pond遠目にボウボウヂーパゴダが見える、風光明媚な池。蓮も咲き誇っていてとても美しかった。



ヤハンダ池。

市民墓地Site Museum市民の骨壷が出土した場所。英語名はミュージアムと書かれているけれど、あるのはたくさんの骨壷。当時は火葬の習慣があったことがわかります。


そして、私がいちばん見たかった
ボーボーヂーパゴダ

パゴダが見えてきた!

迫力があるなあ!

ボーボーヂーパゴダBawbawgyi Pagoda5世紀頃作られた、現存する中ではミャンマー最古のパゴダと言われている。バガン王のアノーヤターもここに来たそうです。


以前はパゴダ内部に
入ることができたそうですが、
現在は建物保護のためもあり
立ち入り禁止。残念!
一見出入り口のようなものはなく、
頭上にある窓のみ。
一体どこから出入りしていたのか謎です。


14:30、
遺跡群の見学終了。
博物館まで戻り牛車を降りる。


15:00、昼食。
ピィ市内のミャンマー料理店で。

16:20、帰路につく。
途中で、
シュエタウンにあるメガネ大仏を参拝。

私も視力回復をお祈りしてきました…

シュエタウンは、ミャンマー麺
「シュエタンカオスエ*」の発祥地だそう。

(*オーノーカオスエとはまた違った風味の
鶏スープベースのココナッツヌードル)


17:00過ぎ、
Pyay Rd.をひたすら南下!

なんと一度も休憩せず。
(運転手2名体制の賜物)

21:00にはヤンゴン市内の
我が家へ到着しました。


旅の感想:
日帰りはとてもハードだったけれど
行く価値は絶対ある場所!
(ただし通常は、ヤンゴンからは1泊で行くスポットのようです)

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ちなみに、
今回の旅をアレンジしてくれたNさんは
日本から数ヶ月の長期出張で
ヤンゴンに来ていた方。

車やガイド手配から旅の仲間集め、
その上しおり作り、共有財布の管理まで
全てこなしてくれたのです。

雨期で道も悪く
日帰りは難しいのではと思いましたが、
Nさんのおかげで非常に有意義な、
思い出深い旅ができました。
本当に感謝、感謝!



*参照書籍*
本記事で紹介する歴史話は、ほとんどが以下の書籍を参照しています。 

・歴史物語 ミャンマー 山口洋一著(カナリヤ書房)  
・ミャンマーを知るための60章 田村克己/松田正彦著(明石書店) 
・物語 ビルマの歴史 根本敬著(中公新書)

ミャンマーの成り立ちや文化の起源がわかって非常に面白いです。旅行前にぜひ読みくらべしてみてください。但し、ビルマ族の起源等や形成には諸説あるそうです。


2019年6月8日土曜日

ヤンゴン中華街を歩こう[2]3大廟巡り〜慶福宮 編


 福建省からの華僑が築いた「慶福宮」。広東系の廟より福建系のほうが、控えめな色合い。

ヤンゴンのチャイナタウンで人気の観光スポットのひとつが、「」です。
(東南アジアのチャイナタウンなら大抵そうなのもしれませんが)ここの廟は主に、広東省出身者が建てた廟と、福建省出身者が建てた廟の2種類にわけられます。

ヤンゴンにある3大廟の内訳。建立年は右から観音古廟(1823)、慶福宮(1861)、龍山堂(1875)


廟では、仏教や道教等の神様どれかではなく、祖先や民間信仰の神様を一緒に祀っていて、自分たちが信じている神様まとめてぜんぶ、という印象です。
中国では明朝末期、3教混合(儒教、道教、仏教)の信仰が民間に信仰していったそう。華僑もその流れをくんでか、ヤンゴンにある廟でも3教混合の神が祀られています。


慶福宮の内部。写真中央奥に祀られるのが媽祖



3大廟(1)Kheng Hock Keong 慶福宮


3大廟の中でも特に有名なのが「Kheng Hock Keong(慶福宮)」。南北に伸びるシンオーダン通りが、ヤンゴン川に沿って伸びるストランド通り(ミャンマー語ではカンナーラン)に突き当たる位置にあります。

資料によれば、植民地時代にはここに華人専用の埠頭があり、中国からの帆船が出入りしていたとのこと。商業・交易を生業としていた福建人は、埠頭のそばに廟を建て、媽祖(航海の神)を中心とした神々を祀りました。

慶福宮には媽祖以外にも、保全大帝(健康・長寿の神)や山西夫子(商業・職業の神)、土地神八神など様々な神がおられます。
華僑の廟に祀られている神様は本当に多種多様!しかも同じ神様でも複数の呼び方(名前)があるんです。調べればいろんな神話や逸話が出て来て面白いんですが、キリがない…

私がここで気になったのは、中央に祀られた媽祖の祭卓下にひっそりとあった神様です。そばにいた地元の方が指差しで教えてくれ、「ホウヤーゴン」というのだそう。虎の置物と石彫りの虎(だと思う)像が、しゃがんで覗き込まないと見えない位置に祀られていました。

これ。

虎は、ここに限らず各廟で目にします。気になって調べてみたら、中国文化研究者の川野先生とい方が、廟の虎について詳しく書いたブログを発見!

台湾と福建系華人の虎爺(虎爺の話その2)
─虎爺を巡る民間信仰 (台南城隍廟とシンガポール大伯公廟
ブログ「アジアの街並−東南アジア旧市街・中国古鎮・日本昔町ー川野明正の研究室」より

川野先生によると、台湾や福建系華人の民間信仰では、“虎は神様に帰依して神使いとなることも”あり、台湾では虎は、土地神・山神の乗騎なのだそうです。また、ときには財神であり、子供の守り神でもあると。

虎ひとつとっても、実に様々な神となるのですね。とても興味深いです。きっとこの慶福宮にいた「ホウヤーゴン」も、このどれかの神様なんだと思います。(でもホウヤーゴンてどういう意味なんだろう…)。

*追記 2019/7/11
川野先生によると、虎爺公(虎の神、中国語読み:フーイエゴン)のことを、福建南部方言ではホーヤーゴンと言うのだそうです。スッキリしました!

「龍山堂」の入り口で見かけた虎の彫刻

「観音古廟」の神様とともに祀られた虎。

ちなみに上の観音古廟の写真、4年前くらいに撮影したのですが、先日再訪してみたら、



塗り直されていました!




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ヤンゴン中華街を歩こう[1]チャイナタウンってどんなとこ?





2019年6月3日月曜日

ヤンゴン中華街を歩こう[1]チャイナタウンってどんなとこ?


福建省からの華僑が建てた「慶福宮」(Strand Rd.)。


ダウンタウンとチャイナタウンのあゆみ


「ヤンゴンの中華街を、じっくり散策してみたいね」
街歩き仲間とずいぶん前から話していたこの企画が、今週ついに実現することに!
そこで街歩きの予習も兼ねて、ヤンゴンの中華街についてこれまで見聞きしたことを、まとめて書いてみようと思います。
(このページは、ヤンゴンのフリーペーパー「MyanMyan」(2015年掲載)で書かせてもらった中華街記事の内容を抜粋し、修正加筆しています)

ダウンタウン中央に鎮座する、スーレーパゴダ。その奥にはヤンゴン川とダラ郡区も見える。(※この写真は北側から撮影しているので、右手がインド人街&中華街。)

ヤンゴンのダウンタウンの西側に、チャイナタウン(中国語では唐人街、ミャンマー語ではタヨウッダン)はあります。チャイナタウンの東にはインド人街があり、スーレーパゴダ、さらに東に進めば植民地時代の“コロニアル建築群”と、ダウンタウンは見所満載のとても興味深いエリアです。


そもそもダウンタウンは、1852年、イギリスが英緬戦争で勝利したことで、本格的に開発が進められました。現在の碁盤目状の街は、このとき形成されたもの。

イギリスは下ビルマを「英国領ビルマ」としてインドの自治州にし、ヤンゴンを「ラングーン」に改め、商業と政治の中心地に整備しました(ラングーンが英国領ビルマの首都となったのは1885年)。

当時、川沿いのダウンタウンは、港で働くための労働力としてすでにやって来ていたインド人が住むエリアで、住民の半数以上がインド大陸東海岸から来た人々だったそうです。そのエリアの中に、華人の居住区が定められました。



ビルマは中国の雲南省と国境を接しているので、昔から中国人の陸路往来が活発でしたが、ラングーンに住んだのは主に、海を渡って来た福建省と広東省の出身者たちでした。

商人として富を得ていた福建省出身者は、ヤンゴン川沿い(現在のストランド通り)にあった交易港の向かいに航海の神を祀り(慶福宮)、その周囲一帯を拠点としたそうです。

一方、職人業で身を立てていた広東省出身者の生活は、マハバンドゥラ通りが中心でした。ラングーン開発で建設業の需要が高まったのに伴い、たくさんの広東人が、大工としてやってきたそうです。

現在は“串焼きストリート”として知られる19番通りも、昔は広東人しかいなかったとか。マハバンドゥラ通りは、当時住人から「広東大街(大通り)」と呼ばれ、多くの商店や飲食店が立ち並ぶメインストリートでした。

ヤンゴンのチャイナタウンといえば有名なのが、19番通りの”串焼きストリート”。夜は観光客や地元民で賑わう

ちなみに、シンガポール発の有名な軟膏「タイガーバーム」の発明者、胡子欽氏の家族は、1870年代に福建省からラングーンに渡ってきたそうです(胡子欽氏はラングーンで生まれ、家族とともに広東大街で「永安堂」という薬局を経営していました)

その後、中国で起こった大躍進政策(19581961)や、文化大革命(19661976)などの影響により、中国本土各地から200万を越える中国人が国境を越えてヤンゴンへ移住したそうです。チャイナタウンでは、広東省や福建省と同じくらいの頻度で祖先が雲南省出身だというミャンマー人によく出会います。

チャイナタウンのマハバンドゥラ通り界隈。漢字表記はそれなりにあるけれど、イメージで思い描くチャイナタウンの街並みっぽさは少ない。


ヤンゴン中華街の特徴

中華街といえば漢字があふれ、中華料理店や雑貨店で賑わうイメージ。でも、ここにはそんな派手さはありません。街が「中華風」から脱却せざるをえなかった時代があり、今もそのまま時を重ねています。

1962年、ビルマはネ・ウィンの軍事政権に突入。
ビルマに根付いて財産を蓄積した外来者(南アジア人、華人)を対象に、企業や土地を国有化する政策を打ち出します。これにより、母国に戻る人、海外他国へ転出する人、ビルマに残る人(外に出たくても出られなかった人々含む)に分かれました(ミャンマーの地方には、今でも村単位で残るコミュニティもあるそうです)。

企業や学校などが国有化され、華人の経済・教育方面にも大きな影響を与えました。学校が国有化されたことにより、ビルマ全土に約300あった華人の学校もなくなります。

中国で文化大革命(19661976)が起こった際には、ビルマの華人社会にも波及。一部で毛主席語録を学習する人々も現れます。こういった流れから、ビルマでも排華事件(1967)が発生。毛沢東バッヂをつけた華人だけでなく、皮膚が白くてズボンを履いているだけで、攻撃の対象になったケースもあるそうです。

これをきっかけに、華人社会ではビルマ国籍の取得とビルマへの同化が加速しました。

それでも、困難な時代を一族や同郷者で助け合い、たくましく生き抜いてきた人々。今尚チャイナタウンには、たくさんの「○○(会)館」(相互扶助組織)の看板が掲げられています。

ここは華人たちの“落地生根”(土地に定着して根をおろす)の歳月が感じ取れる、貴重な場所だと感じるのです。





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